バリ島の旅 1991 強制隔離措置 細菌性赤痢感染と隔離病棟での14日間の全記録

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衛生状態の良くなった日本ですが、まだ赤痢の集団発生は起きています。
以前は海外旅行者が感染をすることが多かったのですが、近年は日本国内で普通に生活している人が感染しています。
調べると、2014年北九州市の幼稚園・2018年葛飾区内の幼稚園と幼児が感染しています。
2019年12月の新聞にも赤痢の集団発生の記事がありました。

山形県酒田市で赤痢の集団発生  12/12(木)   産経新聞

山形県は12日、酒田市の保育所の園児5人と園児の家族の高校生1人が細菌性赤痢に感染したと発表した。
この1週間で同じ保育所の園児、家族計22人の罹患(りかん)が判明したことから、県は集団感染と断定した。
県によると、22人の内訳は園児13人と家族の小学生2人、高校生2人、保護者5人。
新たに罹患が分かった6人は発熱や腹痛、下痢の症状が出たものの、全員快方に向かっているという。
細菌性赤痢は、衛生状態が悪い海外に渡航した際に感染し、帰国後に発症する場合が多い。
県庄内保健所が感染経路などを調べているが、感染者には1カ月以内の海外渡航歴はないという。

記事にも〝細菌性赤痢は、衛生状態が悪い海外に渡航した際に感染し、帰国後に発症する場合が多い。〟と書かれています。
外国人旅行者も増え海外からの菌の持ち込みが原因として考えられるようです。


28年前になりますが、わたしも細菌性赤痢に感染したことがあります。

28年前の1991年当時は、伝染病予防法でヒトの感染性疾病の11種類は「法定伝染病」と呼ばれていました。
わたしが感染した細菌性赤痢は11種類の「法定伝染病」の一つです。
伝染病予防法により、市町村は地方長官の指示に従って伝染病院、隔離病舎、隔離所または消毒所が設置され、法定伝染病に感染した患者は感染拡大を防ぐために伝染病院、隔離病舎、隔離所に〝強制隔離〟されます。(隔離の諸経費は市町村の負担です。←タダ)
1998年に伝染病予防法は廃止され、現在は「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)」が制定されました。
2006年12月8日の法改正と同時に赤痢は三類感染症に変更され、保健所への届け出は必要ですが強制隔離措置は廃止されています。

先ほど取り上げたニュースで赤痢に感染した患者は、〝強制隔離措置〟が無くなりましたから自宅で待機をしていたか一般の病院に入院したと思われます。

今となっては〝強制隔離措置〟は貴重な体験となってしまいました。
それでは、わたしが赤痢に感染した時の話をいたします。

当時25歳のわたしは、スキューバダイビングをしていました。
ホイチョイプロ製作「彼女が水着に着替えたら」が公開された1989年にPADIオープンウオーターライセンスを取得してから、年に何回か海外へ潜りに行っていました。
わたし自身はあまり恩恵を受けませんでしたが、バブル真っ只中の浮かれた時代でした。
スキー・ダイビング・海外旅行、車・バイクとやりたいことや欲しいものが沢山ありました。
今と違って、映画・テレビ・雑誌が主な情報元でしたから、多くの若者を同じ方向へと先導しやすい時代で、わたしもそんな思惑にまんまと乗せられた一人です。

今回の記事を書くにあたり、何十年振りにダイバーズ ログ ブックを開き曖昧になっていた記憶を思い出してみました。
ライセンスカードの写真を見て気恥ずかしく思いながら、ブログのプロフィール写真と比べると若いし痩せてるし確実に過ぎていった歳月を感じます。

1991年11月15日、日本を発ちインドネシア・バリ島へスキューバダイビングに向かいました。


ダイビングログの記録では11月16日と17日の2日間で4本潜っています。
気温27度前後、水温25度前後、透明度10m程度、潜水時間平均40分と記されています。
記憶をたどると、流れが速かったことが思い出されます。魚はとても沢山いましたし、ウミガメやサメも見ることができました。
ダイビングログには赤線部分の記述が残っていました。

ここまでは、楽しい思い出が全てです。

悪夢はここからです。
飛行機に乗る18日はスキューバダイビングをすることができません。
飛行機は上空1000m程度を飛行します。
スキューバダイビングは水中30m程度潜水します。
ダイビング→飛行機と短時間に気圧の差が大きくなると、ダイビング中に血液に溶け込んだ残留窒素が気泡になって血管を塞いでしまい、
マヒ、ショック、脱力感、めまい、しびれ、軽いヒリヒリ感、呼吸困難、関節や手足の痛みの症状が現れます。
これを減圧症(潜水病)と言います。
重症の場合は意識不明、死に至ります。
減圧症(潜水病)は、ダイビング中の急浮上によっても起こる症状です。
ダイビング後24時間は飛行機に乗るのは危険です。(18時間以上であればよいとも言われていますが安全を見て24時間が一般的です。)

この減圧症(潜水病)を防ぐために最後の18日はゴルフに行きました。
午後から雨に降られます。南の島特有のスコールなのでしょうか2時間ほどで雨は上がりました。
体が冷えたのか、お腹の調子が悪くなります。
ホテルに帰ってからも、下痢は続き酷くなっていきます。
一緒に行ったグループのメンバーも同じ症状を発症していました。
内1人は熱もあって一人で歩くこともできなくなっています。
なんとなくヤバイと感じ始めますが数時間後には飛行機で日本に帰ります。
重症になった一人は搭乗拒否をされそうだったのですが、風邪をひいて熱があると説明して無理やり搭乗して全員が帰路につきます。
飛行機に乗ってからも下痢は止まりません。
我慢をして1時間ごとにトイレに行きなんとか8時間後には日本に着きました。
空港には体調を崩しているグループがいると連絡が入っていたようで、わたしたちグループは別室へ誘導されて全員が問診を受けて体温の測定をされます。
下痢をしていたり熱がいる人は検便を取られます。
検便の結果がわかるまでは、自宅に待機することを念押しされ空港を後にします。
やはり自宅に帰っても下痢は止まらず血便が出るようになります。
11月21日、市の保健所から電話があり真性赤痢に感染しているので隔離病棟に入ってもらうと告げられます。
強制隔離措置〟です。
直ぐに会社に電話で事情を説明して、暫くの間は出勤できないので更に休むことを報告します。
保健所の白い車がわたしを迎えにきました。
着の身着のままで車に乗せられて隔離病棟のある病院へ運ばれます。
これは退院後に家族に聞いたことですが、わたしが連れ去られた後、白い防護服に身を包んだ保健所の職員数人が家中を消毒していったそうです。映画やドラマでしか見たこと無い光景です。残念ながらわたしは見ることができませんでしたが・・。
一緒に隔離されたのは3人でしたが、住民票の市町村別の保健所が対応して管轄内の隔離病棟のある病院に送られるので、わたしは一人きりで隔離されました。
当時の新聞記事と診断書です。

病院に着くと用意された服に着替え検便をして薬を飲みます。
金属性の検便容器が、強制隔離措置を強く意識させます。
便器ではなく金属容器にまたがって排便するのです。
せめてアヒルのおまるなら少しは救われる気がしました。(笑って話せる日が来たらやっぱりアヒルでしょ。)

わたし=病原菌です。看護師は必ずゴム手袋をして、わたし自身とわたしが触れたであろう物を触ります。
10床のベッドが入る位の大きな隔離病棟の部屋には、わたし一人きりでベッドが部屋の端に置かれていました。
部屋の隅に置かれたベッドの対角線上の端にテレビが置かれていました。
子供の頃、母親に目が悪くなるからもっと離れてテレビを見なさいと言われていましたが、ベッドから離れすぎていて絶対にそんなこと言われない距離です。
リモコンもありましたがベッドからは全く操作できません。この距離ではリモコンは〝役立たず君〟です。
しかも、わたしが触っても良いようにリモコンがビニールで包まれています。
全く反応しないリモコンをテレビに向けてムキになって押している指先から一人で隔離された悲しさが沁み入ります。
結局、パイプ椅子をテレビの近くに置いてリモコン操作ができる距離で一人きりテレビ鑑賞です。
大きな部屋にテレビの音が無意味に響いています。

面会に来てくれた人とは隔離された部屋の窓越にしか会うこともできません。
面会者は窓の外です。
まるで珍しい動物が展示されている動物園です。
当然わたしが珍獣ですが。
差し入れで持って来てくれたお菓子等の食べる物は受け取ることができません。
珍獣だったらエサぐらいあげてください。甘いものが食べたくなる頃です。

2週間、決められた食事と薬の服用、検便の退屈な日々が繰り返されます。
隔離された部屋とトイレ以外は何処へもいけません。

しかし12月1日の朝早に事件が起きます。
朝6時頃ウトウトしながら布団に包まって寝ているベッドの横から爆音とともに煙がモクモクとあがり、部屋中が煙に包まれて視界がありません。
夢か・・。いやいや、夢だけど夢じゃない。早朝バズーカか!エーッ。
わたしはベッドから飛び起きて状況を整理しながら視界の利く方へ逃げます。
なんとなくわかってきました。
12月になり寒くなったので蒸気を使ったスチームヒーターに蒸気を流したのが原因のようです。
隔離病棟の老朽化も進み隔離される人も長い間無かったので、スチームヒーターは使われること無く長期間放置されていたのでしょう。
久しぶりの隔離患者が来たので、暖房を入れることになり蒸気を流したことで、錆による腐食で薄くなっていた蒸気配管に穴が開いて勢い良く蒸気が噴出したのです。
煙だと思っていたものは、蒸気が冷えた室内に大量に放出され霧のようになったものだったのです。
退屈な一日の始まりのはずでしたが、この日はなかなか刺激的で目覚めのよい朝でした。
人生、色々な事が起こります。スチームヒーターは、こんな形のものです。

12月4日、退院が決まりました。長かったです。やっとシャバに出ることができます。
完全に便に菌が無いことが確認され退院することができました。
退院時には隔離病棟に来た時に着ていた服を高温スチームで消毒して返してくれましたが、
あまりの高温の為に縮んで着る事ができません。
家族に別の服を持ってきてもらいそれを着て帰りました。

退院後の翌日、久しぶりに出社します。
直ぐに総務・人事部に呼ばれます。
先ずは謝り事情を説明して職場復帰を果たし日常生活が始まりました。

ダイビングログによると、次にダイビングに行ったのは半年後の1992年6月25日 沖縄 久米島となっています。
半年間、隔離されたトラウマがあったのでしょう。
しかも、海外ではなく国内にダイビングに行ったのも、もしもを考えてのことだったと記録から推察できます。

そして、1993年10月モルジブでのスキューバダイビングを最後に今日に至ります。
26年が経ちます。

2006年12月8日の法改正で強制隔離措置が廃止されましたから、私のような体験をする人はいなくなりました。

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