記憶の書き換え

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以前仕事をしていた会社は電子部品の製造会社でした。

5年ほど生産業務に従事した後に工場の生産設備の修理や改善、工場内で使用する電気・水・ガス・エアー・蒸気などの管理、工場全体の安全衛生の管理などをしていました。

工場内の機械が動かなくなると原因を探して修理をします。今まで使ったことのない何をするかもわからない、どんな動きをするのかも知らない機械を動くようにするのです。機械は決められた動きを決められた条件によって順番に動くようになっていますから、停止した次の動作に必要な条件が揃っているかを調べます。欠けている条件が見つかればそれが原因です。その条件を満たしてあげれば動き始めます。条件が揃っていて動くための指令も出ているのに動かないときもあります。それは動く部分に原因があり、動かすためのエネルギー(電気や圧縮エアーなど)が伝わっていない場合です。電気であればテスターで電圧を測定してどこまで電気が流れているのかを探ると動かない原因がわかります。電線ケーブルが断線していたり、駆動部品自信が壊れていたりと故障箇所が特定できます。

生産設備の修理をした時にこんな経験をしたことがあります。

機械が動かなくなったと連絡があり現場へ向かいました。作業している人から話を聞き、操作方法と機械の動作を確認して動かない原因を探します。その機械は古くて操作盤の中はたくさんのミニチュアリレーが並んでいるリレー制御でした。幸いにも電気図面が保管されていていたので、図面から動作条件を順番に確認していきます。(図面のない機械は配線番号を追って調べるので時間がかかります。例えるなら、地図がないのに目的地へ道路標識だけでたどり着くようなものです。)

しかし図面に書かれた回路では作業者の〝その人〟から教えてもらった操作方法では動かないのです。どうしても、もう一つスイッチを入れないと動かない回路になっているのです。〝その人〟は日常的にこの機械を使って作業しているので、そんなことはないと思いつつもう一度操作手順を確認します。

いつも動かすように作業してくださいと実際に操作してもらっても〝その人〟は、そのスイッチを入れようとはしません。「いつもの操作でこのスイッチは入れませんか?」と聞くと「入れない。」と答えます。しかたなく私が操作し、そのスイッチを入れると機械は動き始めました。実際にそのスイッチを入れると動き出すのです。図面の回路も動くための条件にそのスイッチが入っているから当然です。機械は動かなくなったのではなく動けなかったのです。

私は〝その人〟に「今からは、このスイッチも操作に入れて作業してください動きますから。」と、お願いしてその場を去りました。

 

毎日使っている人が操作の方法を間違えるのがとても不思議でした。まだ若い人でボケが始まっているとは考えられません。毎日の作業で操作も意識せずにできる位のはずです。それなのに何故あのスイッチを入れないと言ったのか?

よく、機械の動きを変える為に回路の変更をすることがあります。簡単なものではPLC(プログラマブルコントローラー)の中のCPU(中央演算処理装置)に記憶されたプログラムを書き換えるだけで動きを変えることができます。

もしかすると機械と同じように〝その人〟の頭の中にある記憶と言う回路が書き換えられてしまったのでしょうか。そのスイッチを操作する部分だけが消去されて(忘れて)しまったのでしょうか。人は記憶を無くしたり間違った記憶に置き換わったりしても、そのことに気付かずその記憶が自分にとって当然のままでいられることがあるのでしょうか・・・。

もしかすると、自分も記憶が無くなってしまっていたり、変わってしまっていても気が付かないでいるのではないのか。まったく違った記憶に書き換わってもそれに気が付くこともなく。思い出せない過去は存在しないのではないか・・・。そして、思い出すことができる過去も書き換えられたものではないのか・・・。

この頃のCPU(中央演算処理装置)にはRAMかROMのどちらかが使われていました。「RAMは自由に読み書きできるが電源が切れると内容が消える。」と「ROMは読み込みしかできないが電源が切れても内容は消えない。」この2種類に分かれていました。(現在はフラッシュROM(EEPROM)と呼ばれる電気的に書き込めるROMが登場しています。)RAMを使用する場合は内容を維持するためにバックアップ用のバッテリーを使っていましたが定期的な交換を怠ると、ある日バッテリー容量が少なくなってRAMの記憶していた内容が消えて機械は動かなくなります。人の脳も新しい情報が書き込まれて必要に応じて思い出すRAMと同じように動いているとすれば何かでバックアップしているのでしょう。しかしそのバックアップする何かが無くなると脳に書き込まれた内容が消えてしまう。ボケたり物忘れが多くなるのはそう言うことなのでしょう。

結局、機械は壊れておらず、私は〝その人〟の記憶からスイッチの操作を思い出させることはできませんでした。その人が何故スイッチの操作を忘れてしまったのか?その人が思い出し気が付く以外に方法はありませんから。

私は、スイッチを入れて作業する操作方法を〝その人〟の記憶に書き換えたのです。

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