「動物実験は命を奪うことで命の大切さを教える」考え方と、「生き物を苦しめ死んでゆく様子を観察する動物実験を反対する」考え方。
私は両方の考えを否定しません。この両者の考えの前提となる事実は実際に動物を殺すことです。
この行為をどう感じるかは一人ひとり違うはずです。同じことをしても感じ方は幾つもあるはずです。
それでは、「テレビドラマ・映画・ゲームの中で人や動物、宇宙人や怪物と戦い殺すこと、また殺されることで命の大切さを教える」「テレビドラマ・映画・ゲームの中で人や動物、宇宙人や怪物と戦い殺すこと、また殺されることで、人や動物、宇宙人や怪物が苦しんで死んでゆく様子が表現されるテレビドラマ・映画・ゲームを反対する」はどうでしょう。
現実か仮想現実かの違いだけです。現実であっても現実でなくても、どう感じるかは一人ひとり違っていいはずです。ただ、その考えの根底には命の大切さがあって、命は大切だからこう思いという違いはあってもいいはずです。
「動物実験は命を奪うことで命の大切さを教える」考え方と、「生き物を苦しめ死んでゆく様子を観察する動物実験を反対する」考え方。
どちらにも命は大切だという考えが根底にあります。もしどちらかに命を軽視する考えがあればそれは否定するべき考えだと私は思っています。
しかし私は、子供の頃から現在に至るまで多くの命を奪ってきました。
それは続いています。ただ面白半分に殺めているのではありません。
畑や庭の屋外での作業中に蚊にさされたら躊躇なくたたきます。
庭木の葉を毛虫が食い荒らしていたら殺虫剤を吹きかけます。
田んぼでジャンボタニシがピンク色の卵を産んでいたら潰したり水中に沈めます。
家の中にゴキブリが出たら殺虫剤を使います。
歩いている間にはアリを何匹も踏み殺しているはずです。
高速道路を車で走っているときにはにフロントガラスに虫が当たって死んでいるはずです。
虫ばかりではありません。
自分が手を下していませんが、魚・牛・豚・鳥などの動物も、私が食べるために誰かが私のために命を奪っています。
植物だって生きています。米や野菜を育てて収穫して食べます。
レタスなどは生きたまま包丁で切り刻んで生のまま食べます。
畑や庭に生えた雑草は抜いたり除草剤をまきます。
私はそうして今日まで生きてきました。
そうな風に考えると誰もが多かれ少なかれ生き物の命を奪って生きてきたのではないでしょうか。
私は何かを守るために命を奪っている気がします。
蚊から自分守るためにたたきます。庭木を守るために毛虫を殺します。
田んぼの苗を守るためにジャンボタニシの卵を潰します。
ゴキブリによる衛生面の被害や健康上の被害から自分や家族を守るために殺します。
自分の命を守るために魚・牛・豚・鳥・野菜や米を食べます。
畑で育てている野菜が大きく育つように草を引きます。
これらは意識的に命を奪っています。
ただ無意識に命を奪っているのが、歩行中に踏んでしまったアリや、運転中に車に当たった虫たちです。
これらはまったく意識していません、まして死んでしまったことにも気付きません。
私は命の大切さ、命の尊重も理解し、決して命を軽視する考えはありません。
全ての生き物の命を奪ってはいけないと考えはあまりにも行き過ぎで、改めて自分がどうやって生きてきたのかを考えると自身が生きて行けなくなってしまいます。
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